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東京地方裁判所 昭和61年(ワ)5448号 判決 1991年5月30日

原告

株式会社東海堂

右代表者代表取締役

川合庸吉

右訴訟代理人弁護士

廣田尚久

菊地美穂

市川正司

被告

株式会社細川活版所

右代表者代表取締役

杉江斌

被告

株式会社銀座プロセス

右代表者代表取締役

田中芳郎

被告

株式会社エイチ・エムインフオメーションセンター

(合弁前の商号株式会社銀座アート・コムセンター)

右代表者代表取締役

城戸康雄

右三名訴訟代理人弁護士

畑野有伴

主文

一  被告株式会社細川活版所は、原告から金八億円の支払を受けるのと引換えに、原告に対し、別紙物件目録記載の建物のうち、別紙図面中のイロハニホヘトチイの各点を順次直線で結ぶ線に囲まれた部分及び屋上部分を除いたその余の部分を明け渡し、かつ、平成三年二月一日から明渡済みまで一か月金九四五万八七五〇円の割合による金員を支払え。

二  被告株式会社細川活版所は、原告に対し、金八三九六万六一二六円及びこれに対する平成三年二月一日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

三  原告の被告株式会社細川活版所に対するその余の請求を棄却する。

四  被告株式会社銀座プロセスは、原告に対し、別紙物件目録記載の建物のうち五階部分を明け渡せ。

五  被告株式会社エイチ・エムインフォメーションセンターは、原告に対し、別紙物件目録記載の建物のうち一階部分を明け渡せ。

六  訴訟費用は、原告と被告株式会社細川活版所との間においては、原告に生じた費用の三分の二を被告株式会社細川活版所の負担とし、その余は各自の負担とし、原告と被告株式会社銀座プロセス、原告と被告エイチ・エムインフォメーションセンターとの間においては、それぞれ被告株式会社銀座プロセス、被告エイチ・エムインフォメーションセンターの負担とする。

七  この判決は、第二項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

(主位的請求)

1 被告株式会社細川活版所(以下「被告細川活版所」という。)は、原告に対し、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)のうち、別紙図面中のイロハニホヘトチイの各点を順次直線で結ぶ線に囲まれた部分及び屋上部分を除いたその余の部分を明け渡し、かつ、平成三年二月一日から明渡済みまで一か月金九四五万八七五〇円の割合による金員を支払え。

2 被告株式会社銀座プロセス(以下「被告銀座プロセス」という。)は、原告に対し、本件建物のうち五階部分を明け渡せ。

3 被告株式会社エイチ・エムインフォメーションセンター(以下「被告エイチ・エムインフォメーションセンター」という。)は、原告に対し、本件建物のうち一階部分を明け渡せ。

4 被告細川活版所は、原告に対し、金九八七〇万八六三六円及びこれに対する平成三年二月一日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

5 訴訟費用は被告らの負担とする。

6 1ないし4項につき仮執行の宣言

(第一次予備的請求)

1 被告細川活版所は、原告から金二億八〇〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、本件建物のうち、別紙図面中のイロハニホヘトチイの各点を順次直線で結ぶ線に囲まれた部分及び屋上部分を除いたその余の部分を明け渡し、かつ、平成三年二月一日から明渡済みまで一か月金九四五万八七五〇円の割合による金員を支払え。

2 主位的請求2ないし6に同じ。

(第二次予備的請求)

1 被告細川活版所は、原告から金六億円の支払を受けるのと引換えに、本件建物のうち、別紙図面中のイロハニホヘトチイの各点を順次直線で結ぶ線に囲まれた部分及び屋上部分を除いたその余の部分を明け渡し、かつ、平成三年二月一日から明渡済みまで一か月金九四五万八七五〇円の割合による金員を支払え。

2 主位的請求2ないし6に同じ。

二  請求の趣旨に対する答弁

(被告細川活版所)

1 原告の請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

3 仮執行免脱の宣言

(被告銀座プロセス、被告エイチ・エムインフォメーションセンター)

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

3 仮執行免脱の宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、不動産の賃貸等を業とする株式会社であるが、昭和二一年三月一日、被告細川活版所に対し、原告所有の本件建物のうち次の部分を次の内容で貸し渡した(以下「本件賃貸借契約」という。)

(一) 二階部分を除く568.45坪につき、期間八年、賃料一か月当たり金八五二六円七五銭(坪当たり一五円)

(二) 二階の一部表側八〇坪七合につき、期間五年、賃料三七一二円二〇銭(坪当たり四六円)

(三) 二階の裏側一八坪三合(なお、二階の一部表側八〇坪七合と二階の裏側一八坪三合を合わせた部分を除いたその余の部分が、別紙図面中のイロハニホヘトチイの各点を順次直線で結ぶ線に囲まれた部分となる。)につき、期間二年、賃料七三二円(坪当たり四〇円)

2  その後、原告は、被告細川活版所に対し、地下三五坪も貸し渡し、結局、現在、原告が被告細川活版所に対して賃貸している部分は、本件建物のうち別紙図面中のイロハニホヘトチイの各点を順次直線で結ぶ線に囲まれた部分及び屋上部分を除いたその余の部分(以下「本件賃借部分」という。)である。

なお、本件建物の総床面積は、登記簿上は2426.93平方メートルであるが、本件建物の建築時の設計図面に基づき計算すると、総床面積は2290.18平方メートルであるから、本件賃借部分の実際の面積は、本件建物の全体の床面積2290.18平方メートルから原告が自ら使用している二階の一部62.24平方メートル、屋上42.60平方メートル、合計104.84平方メートル(三一坪六合五勺)を差し引いた部分2185.34平方メートルである。

3  その後、本件賃貸借契約は法定更新され、期間の定めのないものとなっている。

4  原告は、昭和六〇年一〇月一四日到達の書面で、被告細川活版所に対し、本件賃貸借契約の解約申入れの意思表示をし、同六一年四月一四日の経過により六か月が経過した。

5  被告細川活版所は、右経過後も、本件賃借部分を使用しているので、原告は、同年四月一七日、被告細川活版所に対し、本件賃借部分の使用につき異議を述べた。

6  右解約申入れについての正当事由は次のとおりである。

(一) 本件建物の老朽化等について

(1) 本件建物は、昭和四年に完成した古いビルで、最近とみに老朽化の度合を深めており、その現状は次のとおりである。

(ア) 本件建物に使用されている鉄骨梁フランジ下面等に生じている隙間、発錆の確認、コンクリートの充填不足等の観察結果によれば、コンクリートと鉄筋との一体性はかなり低下しており、また、鉄骨及び鉄筋の発錆による断面欠損も確認されていて、本件建物はその耐震性を確保する上で極めて好ましくない状態にある。

(イ) モルタル仕上げのみの外壁面では、コンクリートの中性化がかなり進行しており、すべての壁面でひび割れが観察されるが、これは主として鋼材類の発錆による膨張に起因するもので、外壁面の耐久性の劣化はかなり進んでいる。

本件建物の四面の外壁ではいずれも、タイル、モルタルの浮きが多く観察されるとともに、タイルの剥離落下、特に地震による建物の振動に起因する剥離落下が懸念され、右(ア)も考え合わせると、総合的にみて、本件建物の老朽化はかなり進行している。

(ウ) 耐震性の有無については、本件建物の短辺方向と長辺方向につき、必要保有水平耐力(Qun:想定した地震力が建物に作用すると思われる力)、保有水平耐力(Qu:建物が地震を受けたときに期待できると思われる耐力)を求め、Qu/Qun>1.0であれば耐震性ありとされるところ、その値は短辺方向、長辺方向ともに1.0未満であり、本件建物は耐震性に劣る。

(エ) 現在の構造設計法では、一次設計として、中程度の地震を受けたとき、各部の材料(例えば、コンクリート、鋼材等)が建築基準法に定められた許容応力度以内に収まっていることが求められるところ、本件建物の外壁面内に内蔵されている壁梁の多くは、許容する曲げモーメント及び許容せん断力を超えており、柱も許容曲げモーメント以上の応力状態になっている。

(2) タイルの剥離落下を防止するための本件建物の四面の外壁の修復は、かなりの作業を必要とし、前記(1)(ウ)を勘案すると、外壁修復のみを行うことは難しい。

(3) 前記(1)(イ)のタイルの剥離落下のおそれについては、現に昭和五七年四月に外装材(レンガタイル、吹付け材、モルタル)の欠損した破片が落下し、右落下防止のためにあらかじめ本件建物の回りに張られていた安全ネットに引っ掛かったことがある(なお、被告細川活版所は、同五六年一一月二日、原告に対し、本件建物の北側及び西側の全外壁の破損個所を修理せよとの訴えを提起している(東京地方裁判所昭和五六年(ワ)第一二八四四号)。)。

また、原告は、同五九年一月に、中央区役所建築部から、本件建物の外装材のタイル、開口部のパテが落下するおそれがあるとの指摘を受けている。

(4) また、昭和六〇年七月一五日以降の本件建物の実態調査によっても、本件建物は次のような状況にある。

(ア) 躯体コンクリートの中性化が非常に進行しており、その劣化の回復は困難である。

(イ) 鉄筋に錆が生じており、地下部分では鉄筋が露出して発錆がひどい部分がある。

(ウ) 鉄筋のかぶりの厚さが異常に大きい部分があり、そのため鉄筋コンクリートとしての強度が低下している。

(エ) 鉄筋の引張試験の結果、伸びの制限値を満足しないものがあり、現在の一般的基準に照らせば、構造強度が不足している。

(オ) 本件建物の床面のレベル測定をした結果、本件建物には不同沈下が生じている。

(カ) 本件建物の基礎杭は松杭で、近隣の地質調査より推定すると、本件建物の敷地の支持層の深さは約一六メートルであるが、松杭の常用最大長は九メートル程度であるので、地下室の深さを勘案しても、杭の先端が支持層まで到達していない可能性があり、本件建物は、いわば建物の重量を安全に支持できる支持層に到達していない松杭を基礎としてその上に乗っている不安定な状態にある。

(キ) 松杭の健全性は地下水位の高さが杭頭よりも高い場合に初めて保たれるのに、本件建物の周辺の地下水位を調査したところ、本件建物の松杭の杭頭は地下の常水位より一メートル以上も高いため、松杭に腐敗が生じ、それが本件建物の不同沈下の原因となっていると考えられる。

(ク) 本件建物は、みゆき通り側(北側)はほぼ正方形の形状をしており、奥の私道側に面した部分は細長い長方形になっているが、右正方形部分と長方形部分との接続部には階段が配置されており、そのため力が伝わりにくく、地震の時には右各部分がそれぞれ独立した建物に近い状態になる。そして、右長方形部分はその幅が狭いのに比較して高さが高い細長い形になっているので、耐震上不安定である。現行耐震規定により安全度を試算したところ、右長方形部分においては安定の力が転倒の力より著しく小さいため、地震のときには転倒するか大変形する可能性がある。

(5) ところで、本件建物の外壁修理の費用は、その修理方法がエポキシ樹脂注入法の場合は金六八八万円、吹付けタイルの場合は金三五〇〇万円、タイル貼りの場合は金四五〇〇万円、カーテンウオールの場合は金六二〇〇万円とされるが、エポキシ樹脂注入法では外壁の外装材の剥離、落下を防止することができない。また、前記(2)、(4)によれば、それ以外の方法によっても、中性化した躯体コンクリート、基礎杭の松杭、耐震規定の基準を下回っている長方形部分をそのままにして外壁面を修理しても意味がなく、仮に建物の安全性を維持するように外壁面を修理するとすれば、莫大な費用を要する。

(6) 本件建物は、以上のような状態にあるところ、これらによれば、そもそも本件建物の修繕は不可能というべきであり、仮に修繕が可能であるとしても、それには莫大な費用を要する。そして、本件建物が昭和四年に建築されたことを考えると、莫大な費用をかけて大修繕をするよりも、新築した方がよいことは明らかである。

(二) 信頼関係の破壊

(1) 原告が、昭和二一年、被告細川活版所に対して本件賃借部分を賃貸した後、現在まで四〇年余りが経過したが、その間、原告と被告細川活版所との間には紛争が絶えなかった。

(ア) 被告細川活版所は、同二九年ころ、原告に無断で本件建物の屋上に三棟の仮設建設物(バラック)を建設し、作業場、宿舎、置物等に使用したため、原告が収去等の請求をしたが、それに応じなかったので、原告は右収去と損害金の支払を求めて訴えを提起した。

(イ) 被告細川活版所は、同四八年、原告に無断で本件建物の五階部分を写真製版関係のレタッチ工場に改造した。

被告細川活版所が公害による事故がないよう万全の処置を講じ、管理することなどを認めたので、原告は、右改造を承諾した。その後、右工場が被告銀座プロセスであることが判明し、原告は被告細川活版所に釈明等を求めた。

(ウ) 被告細川活版所が、同四九年七月、社員多数を指名解雇したことから、不当労働行為であるとして、労働争議が発生し、その期間中、本件建物の外壁に多数のビラが貼られるなどして、本件建物のイメージを著しく悪くした。

(エ) 被告細川活版所は、前述のように、同五六年一一月二日、原告に対して本件建物の北側及び西側の全外壁の破損個所の修理を求めて訴えを提起した。

(オ) 被告細川活版所は、同五八年八月、原告に対して本件建物の一階部分の内装工事をしたい旨申し入れ、原告がこれを承諾したところ、内装工事の施行後これを使用するのは、株式会社銀座アート・コムセンター(以下「銀座アート・コムセンター」という。)であることが判明した。そこで、原告は直ちに異議を述べたが、被告細川活版所は強引に押し切ろうとし、この問題は未解決となっている。

なお、銀座アート・コムセンターは同六二年一月一二日被告エイチ・エムインフォメーションセンターに吸収合併されたが、被告エイチ・エムインフォメーションセンターは銀座アート・コムセンターに引き続いて本件建物の一階部分を使用している。

(カ) 被告細川活版所は、本件賃貸借契約の存続中、原告の賃料増額請求にまともに応じたことがなく、特に同四八年以降は賃料値上げ交渉は難航し、そのためやむを得ず消費者物価指数を下回る率で賃料の増額が定められた。

また、被告細川活版所は、同五九年四月分以降の賃料増額請求に応じないので、原告は、同年五月一日賃料増額請求の訴えを提起した(東京地方裁判所昭和五九年(ワ)第四六七五号事件)。同六〇年五月二七日に訴訟上の和解が成立し、本件賃貸借契約の賃料は、同五七年四月一日から月額金五六六万六〇〇〇円、同五九年四月一日から月額金六三六万六〇〇〇円と定められた。しかし、現在の賃料は過去の低額な継続賃料の結果としてなお著しく低額である。

(キ) 被告細川活版所は、同六一年一月一八日、一九日、原告に無断で本件賃借部分の地階から三階までの階段部分の壁を削り落とし、塗り替える工事に着手し、原告の再三の中止申入れを無視して同年二月一六日には右工事を完成させた。

(2) 右(1)(ア)ないし(キ)により、原告と被告細川活版所との間の本件賃貸借契約における信頼関係は完全に破壊されている。

(三) 本件建物の敷地の有効利用

(1) 本件建物の敷地は銀座という都内でも有数の商業地域にあるが、本件建物が存続する限り、原告は土地の有効利用を図ることができず、経済的不利益すなわち損害を被ることになり、本件建物の取壊、新築はかえって土地の有効利用という社会的要請に沿うものである。

(2) 原告は、被告らの明渡後、本件建物を取り壊すとともにその敷地に地下二階、地上八階のビルを建築する予定である。

(四) 被告らの本件建物の使用の必要性

(1) 被告細川活版所は、賃借当初は、本件賃借部分の大半を印刷工場として使用していたが、その後、川越工場、目黒工場、大井工場、東銀座工場を有するに至り、昭和四六年には埼玉県草加市松江町に土地二万二四九一平方メートル、建物延一万一一一一平方メートルに及ぶ大規模な印刷工場(以下「草加工場」という。)を建設し、工場部門のほとんどを移転させた。そのため、本件建物には事務部門しか残っておらず、その事務部門にしても地下一階などは物置に使用している。また、本件建物のうち一階部分を当初は銀座アート・コムセンターに、その後吸収合併された被告エイチ・エムインフォメーションセンターに、同五階部分を被告銀座プロセスに使用させており、被告細川活版所が本件賃借部分を使用する必要性自体が減少している。

(2) 被告細川活版所の事務部門については、老朽化した本件賃借部分に固執しなくとも、他に適当な建物に移転することが十分可能である。

(3) 被告らは本件賃借部分の一部をなお工場として使用しているが、銀座という中心地に現像液等の廃液を排出する工場が存在すること自体が問題であり、時代の趨勢からみても、被告らによる本件賃借部分の使用は終了すべきである。

(五) 立退料の提供

(1) 原告は、被告細川活版所に対し、立退料として、昭和六三年二月二三日の第一二回口頭弁論期日において、金二億八〇〇〇万円を提供する旨申し出、平成三年二月五日の第三四回口頭弁論期日において、金六億円を提供する旨申し出た。

(2) 立退料は、賃貸人が建物の明渡しを求めるに当たり、その正当事由を補完する機能を有するものであり、具体的な事実関係を前提として算出されるべきものであって、単純に明渡しを求める建物の借家権価格をもって立退料とすることは相当とはいえない。そして、賃借人の利益は賃借物件の使用目的により異なり、店舗用の場合には高額な投下資本を伴った営業上の場所的利益であり、居住用の場合には住居の安定であるところ、事務所用の場合には、保護されるべき具体的な利益は見当たらない。そして、本件においては、賃貸人と賃借人は経済的に対等な関係に立っているから、正当事由の補強条件として、被告細川活版所に対し、移転料を支払うとしても、それは、移転に伴う経済的不利益を填補するためのものであり、借家権価格を基礎として算出された移転料を支払うことは、経済的に従前の賃料の大部分を返還するのと同じことになり、妥当ではない。

(3) 本件において、鑑定人横須賀博による本件賃借部分の借家権価格の鑑定(以下「本件借家権価格の鑑定」という。)があるが、以下に述べるように、右鑑定は、その採用した算定方法、算定の基礎となる事実等に誤りがあり、これを用いることはできない。

(ア) 割合方式は、相続税財産評価基準における借家人の権利相当額の評価方法を準用したもので、貸家の評価の場合において借家人の存在を理由とする交換価値の減少分を捉えて貸家評価の際の控除項目としているが、借家権そのものに相続税が課せられるのではないから、借家権を財産的に評価をしたわけではなく、借家権の評価方式として失当である。

(イ) 補償方式は、損失補償基準の建物移転等に伴う借家人に対する補償額の手法を準用して求められたものであるが、それは公共用地の取得の必要上、公権力をもって立ち退きを迫る場合であり、正当事由をもって借家人に立ち退きを迫る場合とは具体的事実の基礎が異なるので、相当ではない。

(ウ) 差額賃料還元法は、比準価格を標準とし、当該借家権にかかる不動産の経済価値に即応した適正な賃料(正常実質賃料)と実際支払賃料との乖離及び乖離の持続する期間を基礎として成り立つ経済的利益の現在価値とを比較考量して決定するもので、いわば正常実質賃料から実際支払賃料(一時金等の運用益を含む。)を控除したいわゆる借り得部分をその持続する期間により有期還元して求められたものである。しかし、そもそも実際支払賃料は正常実質賃料に比べてかなり低く抑えられていて、借り得部分もかなりの額にのぼるから、賃貸人が不動産の明渡しを求める際に借り得部分を返還しなければならないとすると、賃貸人は不動産を貸した対価として収受した賃料以上の金員を賃借人に返還しなければならないこととなって相当ではない。

しかも、右方法によると、実際に支払っている賃料が安ければ安いほど、借家権価格が高くなるが、賃料が安いのは賃貸人の賃料増額請求に賃借人が応ぜず、賃借人が不誠実な場合であるから、そもそも借り得部分を還元するという考え方自体が不当である。賃料の安い賃借人はそれだけ蓄積が多くなるから、むしろ賃貸人からの明渡請求に応じやすい経済的基盤ができているはずである。

そのうえ、正常実質賃料は、純賃料相当額を算出し、必要諸経費を控除して算出されるが、その純賃料相当額は評価対象にかかる土地価格と建物価格にそれぞれの期待利回りを乗じて算出されるところ、本件借家権価格の鑑定では、土地価格を現実の取引事例に基づき算出している以上、土地の利回りにも現実の利回りを用いるべきであるのに、二パーセントという期待利回りが用いられている。しかも、本件借家権価格の鑑定がされた昭和六一年から同六三年にかけては土地価格が異常に高騰した時期で、実際の利回りは、一パーセント以下若しくは0.5パーセント以下になったといわれており、二パーセントという期待利回りには何らの根拠もない。

このように差額賃料還元法は理論的にも重大な誤りを内包しており、採用すべきではない。

(エ) 本件借家権価格の鑑定において、昭和六一年四月一四日時点(原告主張の本件賃貸借契約終了時)における本件賃借部分の借家権価格は金六億五三七〇万円、同六三年一二月一〇日時点(鑑定時)におけるそれは金一二億七〇六〇円とされており、わずか二年の間に借家権価格が二倍になっている。これは近隣の地価の上昇が直截に反映したもので、借家人が明渡しを拒むほど支払われる立退料が増えるという結果になり、不当である。

(オ) その他、本件借家権価格の鑑定には次のような問題点が存する。

すなわち、賃借人ではない被告銀座プロセス、銀座アート・コムセンターを賃借人として扱っている。昭和六二年一一月以降は現実には土地価格が下落傾向にあるにもかかわらず、高値安定の横這い状態となっているとの誤った認識を前提にしている。本件建物の敷地のうち104.36平方メートルは日本殖産興業株式会社からの借地であるにもかかわらず、土地価格の算出においてこの点を考慮していない。本件建物の物理的残存価値を五パーセント、使用可能年数を一〇年としているが、五パーセントで一〇年なら単純計算で本件建物は二〇〇年も使えることとなる一方、本件建物は減価償却費ゼロで、また、その老朽化の現象は顕著であるとしているが、これは本件建物の使用可能年数を一〇年としたことと矛盾している。補償方式における計算では、αとして0.2という数字が採用されているが、根拠が明らかではなく、恣意的設定である。本件建物の支払賃料は月額金六三六万六〇〇〇円と計上されているが、後記請求原因7のとおり、原告は被告細川活版所に対し、増額賃料を前提として使用損害金を請求しているにもかかわらず、この点に関する配慮が全くされていない。昭和六三年一二月一〇日時点の借家権価格の算定に当たり、本件建物の敷地の更地価格を算出するため、取引事例が掲げられているが、いずれも同年一月以前のもので、最近の事例が掲げられておらず、適切でない。借家権価格の算定に当たり、差額賃料還元法を七〇パーセント、割合方式、補償方式を各一五パーセントずつ考慮しているが、右割合の根拠が曖昧である。

(4) 本件建物の立退料としては、新規賃借建物の賃料と現在の賃料の差額につき建物の残存使用可能期間分を補填すること、新規建物の賃借の際の保証金の利息につき建物の残存使用可能期間分を補填すること及び賃借建物内の賃借人の事務機器等の運搬料を負担することを勘案すれば足りるというべきである。

右の見地から、本件における立退料を算出すると、次のとおりである。

(ア) 後記請求原因7のとおり、昭和六三年七月二一日以降の本件賃借部分の賃料相当額は月額金八二二万五〇三〇円であり、本件賃借部分の総面積は前記のとおり2318.08平方メートルであるが、これには旧電気室、消火用ポンプ室等の有効利用が困難な個所、階段、廊下等の共用部分が含まれており、現実に有効利用している面積は1901.21平方メートル(576.12坪)であるから、有効利用面積一坪当たりの賃料は金一万四二七七円(円未満四捨五入)となる。

(イ) 銀座地区の新規賃料(一か月分)は一坪当たり金一万七八〇〇円とされるから、被告細川活版所が新規にビルを賃借する場合、一坪当たり金三五二三円の負担増となり、本件賃借部分と同一の有効利用面積を確保するには、一年に金二四三五万六〇四九円(金3523円×576.12坪×12か月)を要することになる。そして、本件建物の使用可能期間を九年とし、年利率五パーセントの新ライプニッツ係数を用いると、係数は7.1078であるから、九年間に要する賃料差額を一括して支払うとすると、その額は金一億七三一二万円となる(金2435万6049円×7.1078=金1億7311万7925円で、一万円未満切上げ)。

(ウ) 新規のビルの賃貸借においては保証金の支払を要するが、本件建物と同程度の建物を賃借する場合の保証金の額は一坪当たり金六〇万円であり、本件賃借分と同一の有効利用面積を確保するには、金三億四五六七万二〇〇〇円(金60万円×576.12坪)が必要となる。そして、右保証金を年六パーセントで運用すると、その利息は、一年に金二〇七四万〇三二〇円であるから、九年間に得られるはずの利息を一括して支払うとすると、その額は金一億四七四一万八〇四六円(2074万0320円×7.1078)となる。

(エ) 本件建物内に存置した被告細川活版所の事務機器等を運搬するための費用の全部または一部として金一億円が必要と考えられる。

(オ) そうすると、被告細川活版所が本件建物から移転するには、右(ア)ないし(エ)の合計金四億二〇五四万円が必要となるが、本件賃借部分のうち、地下一階は物置等に使用され、五階部分は被告銀座プロセスがレタッチ工場として使用しており、一階部分は被告エイチ・エムインフォメーションセンターが使用しているから、右移転料の支払対象から除外すると、移転するために何らかの経済的不利益を伴う部分は二階部分267.35平方メートル(372.19平方メートルから原告が使用している104.84平方メートルを除いた面積)、三階部分及び四階部分各372.19平方メートル、以上合計1011.73平方メートル(306.5坪)であるから、原告が被告細川活版所に対して支払うべき移転料は金二億二三七三万〇三一六円である。

以上の(ア)ないし(オ)をふまえ、原告は被告細川活版所に対し、立退料として金二億八〇〇〇万円を支払う用意がある。

(5) 仮に、本件借家権価格の鑑定を尊重するとしても、本件における立退料としてはせいぜい本件賃貸借契約終了時点における前記借家権価格の範囲内の金六億円にとどめるべきであり、原告は、早期に解決を図るという政策的考慮も加味して、被告細川活版所に対し、立退料として金六億円を支払う用意がある。

(六) 以上のように、本件建物は老朽化しているから、地震等により転倒、大変形するなどの事態が発生した場合、被告細川活版所の従業員はもちろん、通行人その他近隣の人々にも、生命等の危険と損害等を及ぼす可能性があり、本件解約の申入れは、これらを未然に防止し、土地の有効利用を図ることにより、原告の義務と社会的責任を果たすためのものであって、正当事由があり、仮にそうでないとしても被告細川活版所に対する前述の各立退料の提供をも考慮すれば、正当事由を有するものというべきである。

7  使用損害金について

(一) 本件賃貸借部分の昭和五九年四月一日以降の賃料は月額金六三六万六〇〇〇円であるところ、本件賃貸借契約の解約申入れの効力が生じた同六一年四月一五日は、前回の賃料値上げから二年が経過しているので、右同日以降の賃料相当額は、同五七年四月一日から同五九年四月一日までの賃料の増額率1.1235に金六三六万六〇〇〇円を乗じた金七一五万二二〇〇円である。その後、さらに二年以上経過し、その間の公租公課、近隣賃料の上昇が著しいので、同六三年七月二一日以降の賃料相当額は、同五九年四月一日から同六一年四月一五日までの賃料の増額率に近隣賃料の上昇による修正を加えた1.15を金七一五万二二〇〇円に乗じた金八二二万五〇〇〇円である。また、その後も、公租公課、近隣地価の上昇が著しいので、平成二年九月一日以降の賃料相当額は、前記賃料の増額率1.15を金八二二万五〇〇〇円に乗じた金九四五万八七五〇円である。

(二) しかし、被告は、本件賃貸借契約が終了した日の翌日である昭和六一年四月一五日以降も月額金六三六万六〇〇〇円しか供託していないから、使用損害金との差額は、同月一五日から同六三年七月二〇日までは月額金七八万六二〇〇円、同月二一日から平成二年八月三一日までは月額金一八五万九〇〇〇円、同年九月一日から同三年一月三一日までは月額金三〇九万二七五〇円となるから、同六一年四月一五日から平成三年一月三一日までの使用損害金の総額は金八三九六万六一二六円である。

そして、借家法七条二項によれば、不足額に年一割の割合による支払期後の利息を付して支払うべきところ、本件は本件賃貸借契約の意思表示が到達した後の使用損害金の請求ではあるが、使用損害金はあくまでも賃料相当額の損害金であるから、その利息についても当然借家法七条二項の適用を受けるべきであり、被告細川活版所は右使用損害金と供託した金額との差額金に年一割の利息を付して支払う義務がある。

したがって、昭和六一年四月一五日から平成三年一月三一日までの使用損害金の差額及びその利息は、別紙使用金額の差額及び利息計算書記載のとおり合計金九八七〇万八六三六円となり、被告細川活版所は、原告に対し、右金員を支払う義務がある。

8  被告銀座プロセスは本件建物の五階部分を写真製版関係のレタッチ工場として使用して占有しており、被告エイチ・エムインフォメーションセンターは本件建物の一階部分を使用して占有している。

9  よって、原告は、

(一) 被告細川活版所に対し、本件賃貸借契約の終了に基づき、主位的には、本件賃借部分の明渡しと賃貸借終了の日の後である平成三年二月一日から明渡ずみまで一か月金九四五万八七五〇円の割合による賃料相当損害金の支払並びに金九八七〇万八六三六円及びこれに対する平成三年二月一日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を、予備的には、第一に原告から金二億八〇〇〇万円の支払を受けるのと引換に、本件賃借部分の明渡しと賃貸借終了の日の後である平成三年二月一日から明渡ずみまで一か月金九四五万八七五〇円の割合による賃料相当損害金の支払並びに金九八七〇万八六三六円及びこれに対する平成三年二月一日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を、第二に原告から金六億円の支払を受けるのと引換えに、本件賃借部分の明渡しと賃貸借終了の日の後である平成三年二月一日から明渡ずみまで、一か月金九四五万八七五〇円の割合による賃料相当損害金の支払並びに金九八七〇万八六三六円及びこれに対する平成三年二月一日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求めるとともに、

(二) 本件建物所有権に基づき被告銀座プロセスに対しては、本件建物のうち五階部分の明渡しを、被告エイチ・エムインフォメーションセンターに対しては、本件建物のうち一階部分の明渡しをそれぞれ求める。

二  請求原因に対する被告らの認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2のうち、本件賃貸借契約の成立後、原告は被告細川活版所に対し、地下三五坪も貸し渡し、現在被告細川活版所に対して賃貸している部分は本件賃借部分であること(但し、面積は除く)は認め、その余は否認する。

3  同3ないし5の事実は認める。

4  同6中(一)のうち、本件建物が昭和四年ころに建築されたものであること、本件建物の外壁面の外装材(レンガタイル、吹付け材、モルタル)に浮きが生じ、その剥離、落下のおそれがあったこと、現に昭和五七年四月には外装材の欠損した破片が落下し、右落下防止のためにあらかじめ本件建物の回りに張られていた安全ネットに引っ掛かったことがあり、同五六年一一月二日に、被告細川活版所が原告に対し、本件建物の北側及び西側の全外壁の破損個所の修理を求める訴えを提起したこと、同(二)のうち被告細川活版所は、同二九年ころ、本件建物の屋上に三棟の仮設建設物(バラック)を建設し、作業場、宿舎、物置等に使用し同四八年、本件建物の五階部分を写真製版関係のレタッチ工場に改造し、これを被告銀座プロセスに使用させたこと、同四九年七月には被告細川活版所が社員多数を指名解雇したことから労働争議が発生し、右労働争議期間中、本件建物の外壁に多数のビラが貼られたこと、被告細川活版所は、同五八年八月、本件建物の一階部分の内装工事をしたが、その際これを銀座アート・コムセンターに使用させていたことを原告が知ったこと、被告細川活版所は、同五九年四月分以降の賃料増額請求に応じないので、同年五月一日原告が賃料増額請求の訴えを提起し、同六〇年五月二七日に訴訟上の和解が成立し、同五七年四月一日から本件賃貸借契約の賃料は月額金五六六万六〇〇〇円、同五九年四月一日から月額金六三六万六〇〇〇円と定められたこと、被告細川活版所は、同六一年一月一八日、一九日、本件賃借部分の地階から三階までの階段部分の壁を削り落とし、塗り替える工事に着手し、同年二月一六日には右工事を完成させたこと、同(四)のうち被告細川活版所は、賃借当初は、本件賃借部分の大半を印刷工場として使用していたが、その後、川越工場、目黒工場、大井工場、東銀座工場を有するに至り、同四六年には埼玉県草加市松江町に土地二万二四九一平方メートル、建物延一万一一一一平方メートルの草加工場を建設し、本社にあった工場部門の一部を移転させたこと、銀座アート・コムセンターは、同六二年一月一二日、被告エイチ・エムインフォメーションセンターに吸収合併されたことは認め、原告は、被告らの明渡後、本件建物を取り壊すとともにその敷地に地下二階、地上八階のビルを建築する予定であることは知らず、その余は否認ないし争う。

5  同7のうち、本件賃借部分の同五九年四月一日以降の賃料は月額金六三六万六〇〇〇円であることは認めるが、その余は争う。

6  同8の事実は認める。

三  被告らの主張

1  本件建物の老朽化等について

(一) 本件建物は昭和四年ころに建築され、戦災にも遭っているが、もともと関東大震災後の復興建物として安全性には格別の配慮がされている堅固な建物であり、これまでの年月の経過等により、躯体コンクリート、鉄筋、基礎杭等に原告の主張するような問題が若干はあるとしても、本件建物を全体としてみると堅牢性、安全性に影響はほとんど見られず、通常の用法に従う限り、使用につき危険を生じる点は全くない。

(二) また、本件建物とほぼ同様の堅固建物の平均的な耐用年数を併せ考えると、今後相当の年数、現況のままの使用が可能であるといえ、本件建物には建替えの必要性は全くない。

(三) 本件建物の外壁面の現況は、建物の補修により十分回復し得る程度のものに過ぎない。

2  信頼関係の破壊について

原告が、被告細川活版所の背信行為と非難する点はいずれも本件賃貸借契約の解約申入れとして斟酌するに値しない。

すなわち、請求原因6(二)(1)(ア)は、昭和三三年一二月一八日に裁判上の和解が成立し、解決済みである。同(イ)及び(オ)については、被告細川活版所の改装、内装工事は本件賃貸借契約上当然に許される範囲内の正当な行為であり、また、被告銀座プロセス、銀座アート・コムセンター若しくは被告エイチ・エムインフォメーションセンターは被告細川活版所の一部門であり、両社による本件建物の五階部分と一階部分の使用は被告細川活版所の使用と同一視すべきであり、そもそも同五四年五月七日被告細川活版所は、両社の使用につき一切の迷惑をかけない旨の誓約をして原告の了承を得ており、右問題はいずれも解決済みである。同(ウ)は、そもそも本件賃貸借契約における背信行為にはなり得ず、同(エ)は、被告細川活版所がやむを得ずとった正当な権利行使であり、なんら背信性を有せず、同(カ)については、被告細川活版所は諸般の事情を考慮して相当と考えられる賃料増額に応じてきており、原告主張のような事実はない。同五七年四月以降の賃料増額に応じなかったのは、原告に本件建物の外壁面の修繕義務の不履行があったからにほかならない。同(キ)も本件賃貸借契約上当然許容される範囲内の工事である。

3  本件建物の敷地の有効利用について

原告の主張する建物の建替えの必要性とは、本件建物を取り壊して新規ビルを建築することにより、都内でも有数の商業地域にある本件建物の敷地を最も効率的に利用し、高収益を得たいということに過ぎない。

このような賃貸人の一方的都合は正当事由としては薄弱である。

4  被告らの本件建物の使用の必要性について

(一) 被告細川活版所は、現在本件建物を本店事務所及び一部工場として使用中であり、本件建物には被告細川活版所の全企業活動の中枢としての重要性がある。

(1) 被告細川活版所は、大正一三年に設立され、各種商業美術印刷を主たる営業目的とし、従業員数は約三六〇名で、本社部門を本件建物におき、生産部門は主として草加工場で行い、そのほかに川越工場、目黒工場を有する。

(2) 銀座アート・コムセンターは、昭和四九年三月一二日に被告細川活版所の一部門として、印刷に関する企画製作デザイン写真撮影等を営業目的として設立され、被告銀座プロセスは同四八年八月四日にオフセット印刷における原版の写真製版を主たる営業目的として設立されたが、銀座アート・コムセンター、被告銀座プロセス及び被告細川活版所は、オフセット印刷の工程中核心となる原版の製作作業を、一体となって行っている。すなわち、被告細川活版所の受注した印刷物につき同社の管理下において銀座アート・コムセンターが原版の文字部分を作成し、次に被告銀座プロセスがカラー印刷部分を製作した上、原版となる写真製版のフィルムを完成し、これに基づき被告細川活版所の工場部門が受注数量の印刷物を製品化する。この工程では、被告ら三社の各担当従業員は常時緊密な連係を保ち、作業を遂行する必要があるため、本件建物の一部分を当初は銀座アート・コムセンターが、その後は被告エイチ・エムインフォメーションセンターが、同五階部分を被告銀座プロセスがそれぞれ使用している。

(3) そして、被告細川活版所は本件建物内において公害条例に基づく工場認可を受け、被告銀座プロセスとともに写真製版工場を稼働中であるが、前述のとおり、右工場の稼働は、被告細川活版所の企業活動にとって不可欠であり、右工場部門のみを他に移転することはその企業活動に重大な支障をきたす。

(二) 被告細川活版所は、本件建物とほぼ同等の立地条件、使用面積、工場認可等の諸条件を備えた移転先を他に見出すことはできない。

(1) 被告細川活版所の主なる顧客は官公庁、公共団体のほか各種企業であり、これらは千代田区、中央区、港区等の都心部に集中しているが、商業印刷業においては多種多様な顧客の注文を、大量かつ迅速に処理する必要があり、そのためには顧客に近接した本件建物の立地条件は営業活動上重要である。

(2) また、被告らの賃借面積は2322.09平方メートル(702.45坪)にものぼり、今後も従前の営業活動を行っていこうとすると、同じ広さを有する賃借物件を確保する必要があるとともに、前述のとおり、工場認可も得る必要がある。

(3) しかし、右のような工場認可を受けることができ賃借面積も本件賃借部分とほぼ同等のビルを都心部において見出すことははなはだ困難である。

(三) したがって、被告らの本件建物からの移転は極めて困難であり、もし本件建物を利用できなくなれば、被告らの営業ははなはだしい損害を被ることは必至であり、被告らには本件建物を使用する必要性がある。

5  原告が提示した立退料について

本件のような商業地域の高度利用の必要から、老朽した建物を取り壊し、ビルを新築することを理由とする建物賃貸借の解約申入れの際に提示される立退料は、建物明渡しによって賃借人が喪失する借家権価格を補償の中心とし、場合によって営業権の補償を含めた損失補償とすべきところ、原告提示の立退料金二億八〇〇〇万円のうち金一億円は移転実費補償で、残りの金一億八〇〇〇万円は新規賃借に要する経費補償であって、借家権に対する補償は全く含まれていない。このように借家人の基本的利益の補償を欠く原告提示の立退料は、正当事由を補強するに足りるものとはいえないから、原告の解約申入れは正当事由を具備しない。

四  被告らの主張に対する認否

1  被告らの主張1のうち、本件建物は昭和四年に建築され、戦災にも遭っていることは認め、その余は争う。

2  同2のうち、請求原因6(二)(1)(ア)につき、同三三年一二月一八日に裁判上の和解が成立したことは認め、その余は争う。

3  同3は争う。

4  同4のうち、被告細川活版所は、各種商業美術印刷を主たる営業目的とし、本社部門を本件建物におき、生産部門は主として草加工場で行い、その他に川越工場、、目黒工場を有すること、銀座アート・コムセンターは、同四九年三月一二日に印刷に関する企画製作デザイン写真撮影等を営業目的として設立され、被告銀座プロセスは同四八年八月四日にオフセット印刷における原版の写真製版を主たる営業目的として設立されたこと、被告細川活版所が本件建物内において公害条例に基づく工場認可を受けていることは認め、被告細川活版所の受注した印刷物につき同社の管理下において銀座アート・コムセンターが原版の文字部分を作成し、次に被告銀座プロセスがカラー印刷部分を製作した上、原版となる写真製版のフィルムを完成し、これに基づき被告細川活版所の工場部門が受注数量の印刷物を製品化し、この工程では被告ら三社の各担当従業員は常時緊密な連係を保ち、作業を遂行する必要があること、被告細川活版所の主たる顧客は官公庁、公共団体のほか各種企業であり、これらは千代田区、中央区、港区等の都心部に集中していることは知らず、被告らの賃借面積が2322.09平方メートルであることは否認し、その余は争う。

5  同5は争う。

第三  証拠<省略>

理由

第一被告細川活版所に対する請求において

一請求原因1の事実、同2のうち、本件賃貸借契約の成立後、原因が被告細川活版所に対し、地下三五坪も貸し渡し、原告が現在被告細川活版所に対して賃貸している部分は本件賃借部分であること(但し、面積は除く。)、同3ないし5の事実は、当事者間に争いがない。

なお、本件建物の総床面積については、<証拠>(本件建物の建築時の設計図面)には、2290.18平方メートルとの記載があるが、<証拠>(登記簿)によれば、本件建物の総床面積は2426.93平方メートルとされており、登記簿の記載が設計図面と齟齬する理由は不明であるが、本件建物の総床面積を実測した結果、2290.18平方メートルと確認されたわけではないから、登記簿の記載に従い、本件建物の総面積は2426.93平方メートルと認めるのが相当である。

二そこで、本件賃貸借契約の解約申入れに正当事由が存するか否かにつき判断する。

1  本件建物の物理的状況について

(一) 本件建物が昭和四年ころに建築されたことは当事者間に争いがなく、そうすると、右解約申入れの時点において、築後約六〇年近くが経過していることになる。

(二) <証拠>によれば、次の事実が認められる。

(1) 本件建物の形状

本件建物は、いわゆる鉤型(L字型)で、正方形部分と長方形部分とから成り、正方形部分のうち北西側は数寄屋通りに、北東側はみゆき通りにそれぞれ面しており、長方形部分の北東側には私道が走っている。玄関は、正方形部分のうち、みゆき通りに面して設けられている。

(2) 構造の概要

(ア) 本件建物は主体構造(柱梁で構成するラーメン)に鉄骨を挿入した鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)で、建物の外周の壁梁、つまり、本件建物の外壁面の壁内に内蔵された壁厚と同じ梁幅をもつ壁梁(以下「WG梁」という。)は組立格子型鉄骨を用いた鉄骨鉄筋コンクリート造であり、建物の内壁の梁、つまり、建物内に見られる柱相互をつなぐ壁梁(以下「G梁」という。)はフルウエブI型鋼を用いた鉄骨鉄筋コンクリート造で、柱は各階とも一部のみ鉄筋コンクリート造(SC造)で、それ以外は格子型あるいはウエブプレートの組立材を内蔵した鉄骨鉄筋コンクリート造で、壁、床は鉄筋コンクリート造である。

しかし、本件建物は鉄骨鉄筋コンクリート造といっても、鉄骨が格子型、タイプレート形式であるから、フルウエブの鉄骨鉄筋コンクリート造というよりは鉄筋コンクリート構造の構造特性に類似し、鉄筋コンクリート的な破壊性状を起こすと考えられる。

(イ) WG梁と柱とで囲まれた外周の壁は厚さ三五センチメートルとかなり厚いが、配筋は10.250@程度に過ぎないと想定され、一階のほとんど、二階の一部、三ないし五階の若干部分は耐震壁と評価できるが、残りは後記(3)(イ)、(オ)及び3の認定の外壁の中性化の進行、外壁の鉄筋の断面欠損、外壁のひび割れを考えると、その耐力はあまり期待できず、耐震壁とは評価できない。

(ウ) したがって、本件建物は全体的にみて、じん性に乏しく、強度に地震力に抵抗するような構造の建物である。

(エ) 本件建物の基礎杭は松杭が使用されている。近隣の地質調査から見ると、本件建物の敷地の支持層の深さは約一六メートルであるが、松杭の常用最大長は九メートルであるので、地下室の深さを勘案しても、杭の先端が支持層まで到達していない可能性がある。

(オ) 地震力算定用建物重量より本件建物の単位面積当たりの重量を算出したところ、その平均値は一平方メートル当たり1.78トンで、殊に屋上階は一平方メートル当たり2.35トンである。現在の一般的建物が一平方メートル当たり1.2ないし1.4トン、重いものでも1.5トン程度であることを考えると、本件建物はかなり重い建物ということになるが、これは仕上げ材が厚いことによる。

(3) 建物の現状と材料強度(建物の外壁の現状については、後記(4)を参照)

(ア) 本件建物に使用されたコンクリートは普通コンクリートである。三友エンジニアリング株式会社は、原告の依頼を受けて、昭和六二年六月六日に本件建物の劣化調査を実施したが、その際に本件建物の壁から採取したコンクリートの圧縮強度は、一平方センチメートル当たり二六四ないし四八一キログラムである。これは、本件建物の建築当時の技術的水準から予想した一平方センチメートル当たり一八〇キログラムの圧縮強度を上回るものであり、コンクリート強度という点では材料の劣化は見られない。

(イ) しかし、三友エンジニアリング株式会社が原告の依頼を受けて昭和六〇年七月一五日及び一六日に本件建物の躯体コンクリートの中性化等の調査を実施した際には、本件建物の外壁のモルタルとコンクリート部分を合わせた総平均中性化深さは、5.4ないし84.0ミリメートルの範囲にあり、タイル仕上げ部分とモルタル仕上げのみの部分とでは、前者の方が総平均中性化深さは小さく、コンクリート部分のみの中性化深さは、数寄屋通り側五階の外壁で31.2ないし66.4ミリメートル、みゆき通り四階の内壁で37.7ミリメートルであった。竣工後五〇年程度を経過したコンクリート造の建物のコンクリートの中性化深さは、約二六ないし五五ミリメートルの範囲にあるとされていることを考えると、本件建物のコンクリートの中性化は竣工後の年数から考えて相当進行しているといえる。また、コンクリートの最大中性化深さが鉄筋のかぶり厚さ(鉄筋からコンクリート外面までの厚さ)を上回っている個所が相当あるが、これはコンクリート内の鉄筋の発錆の原因となる。

(ウ) 鉄筋のかぶり深さが大きければ大きいほど、その分、無筋状態の部分が大きく、コンクリートの強度を低下させるところ、かぶり深さが八五ミリメートルもある部分があり、本件建物の外壁部分には無筋状態のためコンクリートの強度が低下している個所がある。

(エ) また、鉄骨のフランジ下面にコンクリートの未充填による約一〇ミリメートルの空隙が存在する梁が見られ、また、本件建物の二階で、数寄屋通りに面したWG梁と柱とで囲まれた壁にはコンクリートの充填不足の部分が見られたが、これは鉄骨を内蔵するコンクリート構造物の施工性の難しさに起因すると考えられる。

(オ) 鉄筋、鉄骨に顕著な発錆が見られる。

WG壁と柱とに囲まれた壁のうち内側部分の発錆個所は、昭和六〇年七月一五日及び一六日に実施された前記(イ)の調査の段階では、おおむね部分的に点食を認める程度で、中には、亀裂、打継ぎ等に局所的な断面欠損が見られるところがある程度であった。しかし、同六二年六月六日に実施された前記(ア)の調査の段階では、大部分が赤錆に覆われているような状態であり、中には、亀裂、打継ぎ等に局所的な断面欠損が見られたり、層状錆の膨張力によりかぶりコンクリートを持ち上げているところもあり、発錆が相当進んでいる。

また、WG壁と柱とに囲まれた壁の外側部分(外壁)の発錆個所(いずれも私道に面した部分)は、前記(ア)の調査の段階では、亀裂、打継ぎ等に局所的な断面欠損が見られたり、層状錆の膨張力によりかぶりコンクリートを持ち上げていたりしていた。

さらに、前記(イ)の調査の段階では、本件建物の地階床スラブはコンクリートが剥離し、ひどく発錆した鉄筋が露出し、腐食により寸断されている個所があった。

(カ) 壁の主筋等主要な部分の鉄筋は、丸鋼で、その降伏点強度は一平方センチメートル当たり二六〇〇ないし三〇〇〇キログラムであり、現在新築するビルのほとんどが降伏点強度一平方センチメートル当たり三〇〇〇キログラム、場合によっては三五〇〇キログラムの鉄筋を使用していることを考えると、現在の一般的基準に照らせば、本件建物の構造強度は不足している。

(キ) 本件建物の外壁面内に内蔵されている梁の曲げモーメントは、G梁には算定された曲げモーメント(存在応力)よりも梁部材の許容曲げモーメントの方が小さいものは見られないが、WG梁ではそのほとんどが算定された曲げモーメントよりも梁部材の許容曲げモーメントの方が小さい。梁のせん断応力は、G梁には算定された曲げモーメントよりも梁部材の許容曲げモーメントの方が小さいものは見られないが、WG梁ではすべて算定された曲げモーメントよりも梁部材の許容曲げモーメントの方が小さかった。

柱には、算定された曲げモーメントよりも許容曲げモーメントが上回るところが多く見られる。

しかし、本件建物の各部の材料につき許容応力度設計(中程度の地震を受けたときに建物の各部の材料が建築基準法で定められた許容応力度以内に収まっていることを確認するための設計)をしたところ、外壁面内に内蔵されている壁梁の多くが許容する曲げモーメント及び許容せん断力を超えており、柱についても許容曲げモーメント以上の応力状態になっているから、本件建物の使用材料には許容応力度を超えて使用されているものがかなりあることになる。

(ク) 本件建物の各階につき高低測定をしたところ、本件建物は全般的に数寄屋通り側より私道側に向かって低くなっており、こうした傾向は二ないし四階のいずれの階についてもいえるから、本件建物には不同沈下が生じている。

(ケ) 本件建物にはエレベーターが一基設置されているが、老朽化がはなはだしく、現在は全く使用されていない。

(コ) 杭ごとに、許容支持力(Na)と柱軸力(N)とを比較すると、その比(Na/N)は、2.54ないし6.09であり、安全率からみると、本件建物の基礎杭には十分な安全性がある。しかし、杭の支持力は杭材により決まるので、地下水位の低下により杭頭の断面欠損が生じた場合には、右安全率も低下する。

(4) 本件建物の外壁の現状

(ア) 本件建物の外壁は、みゆき通り側は二ないし五階までモルタル、タイル仕上げ、数寄屋通り側は二階はタイル仕上げ、三ないし五階はモルタル、タイル仕上げ、私道側は二ないし五階までモルタル仕上げであり、一階部分のうち、玄関の壁はモルタル、タイル仕上げであるが、みゆき通り、数寄屋通りに面したその余の部分はブロック壁であり、私道に面した部分はモルタル仕上げとタイル仕上げとから成り、窓の回りの笠木部分には装飾用テラカッタがある。

(イ) 前記(3)(イ)の調査の段階では、本件建物の外壁にはひび割れが生じていた個所があったが、前記(3)(ア)の調査の段階では、各面ともひび割れ及びタイル、モルタルの浮きが多く観察された。

(5) 本件建物の耐震性の有無についての計算結果

(ア) 本件建物の短辺方向(X方向)と長辺方向(Y方向)について、想定した地震力が建物に作用すると思われる力(Qun:必要保有水平耐力)、耐力が地震力を受けた時に期待することができると思われる耐力(Qu:保有水平耐力)の比(Qu/Qun)を求め、Qu/Qun>1.0をもって耐震性があるとすることとしたところ、本件建物の右の値は二ないし四階まではいずれも1.0未満で、一、二階では0.7以下となっている。

(イ) 地震のときに建物が安定しているためには、建物の総重量の二分の一に建物の幅を乗じた値(安定の力)が転倒するモーメントを上回っていればよく、安定の力を転倒するモーメントで割った値を安全率とし、(通常建物を設計する場合には安全率が1.5以上になるようにするところ、本件建物のうち、長方形部分の安定率は0.868となるに過ぎない(なお、本件建物の建築当時の市街地建築物法の地震々度の基準値は0.1で、現行法規の二分の一であったので、計算上は安定していた。)。

(6) 以上認定の事実を踏まえると、本件建物の老朽化の進行状態、耐震性、外壁面の修理可能性等は、次のとおりである。

(ア) 前記認定の本件建物の鉄骨梁フランジ下面等に生じている隙間、発錆の確認、コンクリートの充填不足等の観察結果などに鑑みると、コンクリートと鉄筋との一体性はかなり低下していると判断され、また、鉄骨及び鉄筋の発錆による断面欠損も確認されているから、本件建物はその耐震性を確保する上では極めて好ましくない状態にあり、総合的にみて本件建物の老朽化はかなり進行していると考えられる。

また、本件建物の一ないし四階の必要保有水平耐力と保有水平耐力の比はいずれも1.0未満であり、本件建物は耐震性に劣るといわざるを得ない。

(イ) 本件建物の四面の外壁のタイルの剥離落下、特に地震による建物の振動に起因する剥離落下が懸念され、右(ア)も考え合わせると、単なる外壁修復では意味がなく、耐震補強という観点からすると、大規模な補強工事の中で外壁修復を実施すべきである。

以上の事実が認められる。

右認定に反する被告細川活版所代表者兼被告エイチ・エムインフォメーションセンター代表者(以下単に「被告細川活版所代表者」という。)尋問の結果は、前掲各証拠に照らして直ちに信用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  本件建物の外壁の修理状況、経過及び方法について

後記3(一)の当事者間に争いがない事実、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 原告は、昭和二九年、同三七年、同四〇年、同五〇年、同五二年と合計五回にわたり本件建物の外壁の修理をしている(但し、補修部分に関する詳細は記録がないため明らかではない。)。

(二) その後も、本件建物の外装材(レンガタイル、吹付け材、モルタル)に浮きが生じたため、その剥離、落下のおそれが生じた。しかも、同五六年六月から、新聞紙上で、ビルの外壁からの外装材の剥離、落下の事実が報道され、また、東京都中央区役所建築部から、本件建物の外装材のタイルや開口部のパテの剥離、落下につき指摘を受けたことから、原告は、同年秋、右落下防止のために本件建物の回りに安全ネットを張り巡らしたところ、同五七年四月、外装材テラカッタの欠損した破片が落下して右安全ネットに引っ掛かったことがあった。

(三) 被告細川活版所は安全ネットではなく、本格的外壁修理を求めたが、原告が聞き入れなかった。そこで、同五六年一一月二日、被告細川活版所は、原告に対し、本件建物の北側及び西側の全外壁の破損個所の修理を求める旨の訴え(東京地方裁判所昭和五六年(ワ)第一六四四号)を提起した(この事実は争いがない。)。右訴えは、その後取り下げられた。

(四) ところで、本件建物の外壁の修理方法としては、浮き部分に一種の接着剤であるエポキシ樹脂を注入するエポキシ樹脂注入法、液状のタイルを壁に吹き付ける吹付けタイル工事、タイルそのものを取り替えるタイル貼り替え工事、現在の外壁に下地を作ってその上に金属パネルを取り付けるカーテンウォール取付け工事が考えられるが、前一者は応急的な修理方法で、後三者は根本的な修理方法であり、カーテンウォール取付け工事が剥離、落下の防止のためには最も確実な方法である。

(五) しかし、本件建物の外壁に貼り付けられているタイルの下のモルタルはだんご張りモルタルであるため、エポキシ樹脂注入法では補修の意味がない。

(六) そして、修理費用は、エポキシ樹脂注入法の場合は金六八八万円(同五六年五月二〇日現在)、吹付けタイル工事の場合は金三五〇〇万円、タイル貼り替え工事の場合は金四五〇〇万円、カーテンウォール取付け工事の場合は金六二〇〇万円(以上、同五七年一一月一日現在)とされるが、建物の外壁の状態如何により修理費用には幅があり、カーテンウォール取付け工事の場合は金一億二〇〇〇万円を超える場合もありうる。

以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

3  本件建物の利用状況及び原告と被告細川活版所との間の信頼関係の破壊について

(一) 次の事実は当事者間に争いがない。

(1) 被告細川活版所は、昭和二九年ころ、本件建物の屋上に三棟の仮設建設物を建設し、作業場、宿舎、物置等に使用したため、原告は右収去と損害金の支払いを求めて訴えを提起したが、同三三年一二月一八日に訴訟上の和解が成立した。

(2) 被告細川活版所は、同四八年、本件建物の五階部分を写真製版関係のレタッチ工場に改造し、これを被告銀座プロセスに使用させている。

(3) 被告細川活版所は、同四九年七月、社員多数を指名解雇したことから労働争議が発生し、右労働争議期間中、本件建物の外壁に多数のビラが貼られた。

(4) 被告細川活版所は、同五六年一一月二日、原告に対し、本件建物の修理を求める前記訴えを提起した。

(5) 被告細川活版所は、同五八年八月、本件建物の一階部分の内装工事を行い、これを銀座アート・コムセンターに使用させた。

(6) 被告細川活版所が同五九年四月分以降の賃料の増額請求に応じないので、原告は、同年五月一日、賃料の増額請求の訴え(東京地裁判所昭和五九年(ワ)第四六七五号)を提起し、同六〇年五月二七日に訴訟上の和解が成立し、本件建物の賃料は同五七年四月一日から月額金五六六万六〇〇〇円、同五九年四月一日から金六三六万六〇〇〇円と定められた。

(7) 被告細川活版所は、同六一年一月一八日及び一九日、本件建物の地階から三階までの階段部分の壁を削り落とし、塗り替える工事に着手し、同年二月一六日には右工事を完成させた。

(二) 前記2(二)で認定した事実、<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 本件建物は戦災に遭い、その内部が火災で燃えたため、被告細川活版所が本件建物に入居するに当たり、改築工事をする必要があった。そこで、原告と被告細川活版所は、昭和二一年三月一日本件賃借契約の際、本件建物の保存に必要な費用は被告細川活版所が負担することを合意するとともに、本件建物の改築、保存等のための費用を被告細川活版所が負担することとし、それゆえ、原告は本件賃借部分の賃料を一か月当たり金一五円とした。その後、原告と被告細川活版所は、同三七年八月三〇日、本件建物の保存に必要な通常の修繕費用は原告が負担すること、被告細川活版所が本件建物を変更することなく、内部の模様替え等をするときは、あらかじめ原告の同意を得ること、その費用は被告細川活版所の負担とし、賃貸借終了のときは原状に復することを合意した。また、その後の賃料は、二年に一回の割合で昭和五五年まで原告と被告細川活版所の合意により改定されてきた。

(2) ところで、被告細川活版所は、各種商業美術印刷を主たる営業目的とする株式会社で、銀座アート・コムセンターは昭和四九年三月一二日、印刷に関する企画製作、デザイン写真撮影等を営業目的として被告細川活版所が設立した会社で、被告銀座プロセスは、同四八年八月四日、オフセット印刷における原版の写真製版を主たる営業目的として被告細川活版所が設立した会社である。被告細川活版所、銀座アート・コムセンター及び被告銀座プロセスは、オフセット印刷の工程の中心となる原版の製作作業、を一体として行ってきた。すなわち、被告細川活版所の管理下において、銀座アート・コムセンターが原版の文字部分を作成し、被告銀座プロセスが、カラー印刷部分を製作したうえ原版となる写真製版フィルムを完成し、両社が完成させた原版に基づき、被告細川活版所の工場部門が受注数量の印刷物を製品化している。そして、被告細川活版所は、原版の製作作業を円滑に行うために、同四八年、本件建物の五階部分を写真製版関係のレタッチ工場に改造し、同四九年からは右五階部分を被告銀座プロセスに使用させ、その後、右一階部分を銀座アート・コムセンターに使用させた上、同五八年八月には本件建物の一階部分に内装工事を施すなどした。そして、現在、被告細川活版所は本件賃借部分を使用している。

被告エイチ・エムインフォメーションセンターは、同五六年、印刷に関する写真植字版下の製作デザイン業務等を営業目的として設立された会社で、同六二年一月一二日には銀座アート・コムセンターを吸収合併し、銀座アート・コムセンターに引き続いて本件建物の一階部分を使用して、被告細川活版所の受注した原版作成の工程を分担している。

(3) 被告細川活版所は、昭和二一年に原告から本件建物の引渡しを受け、現在に至るまで本件賃借部分を使用してきたが、原告と被告細川活版所との間には、本件賃貸借契約の成立後、前記(一)のような紛争が繰り返されてきた。なお、右における被告細川活版所の各工事は、事前に原告の承諾を得ていないものであった。そして、現在同被告は、賃料を供託している。

以上の事実が認められ、右認定に反する<証拠>は前掲各証拠に照らして信用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(三) ところで、原告は、被告銀座プロセスが本件建物の五階部分を、同エイチ・エムインフォメーションセンターが本件建物の一階部分をそれぞれ使用しているが、右は、被告細川活版所による無断転貸であり、前記(二)(3)認定の事実も勘案すると、原告と被告細川活版所との間の本件賃貸借契約における信頼関係は破壊されている旨主張する。

しかし、前記認定の事実によれば、被告銀座プロセスと同エイチ・エムインフォメーションセンターは被告細川活版所の行う営業の一部門を担当するいわゆる子会社であり、原告も相当以前から同被告らの使用の事実を知っていたことが認められ、また、前記(二)(3)の紛争の一部はすでに解決済みであり、その余のものも、いまだ原告と被告細川活版所との間の本件賃貸借契約における信頼関係を破壊するに至るほどのものとは認め難い。

右によれば、原告と被告細川活版所との間の本件賃貸借契約における信頼関係が破壊されたということはできないから、この点に関する原告の前記主張は理由がなく、採用することができない。

4  原告による本件建物の建替え計画について

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一) 原告が本件建物の敷地に建替えを予定している建物(以下「建替建物」という。)は、地上八階、地下三階、延面積3497.30平方メートル(1057.93坪)で、一階、二階は店舗用、三階以上は事務所用である。

(二) 施工は株式会社大林組の予定であり、原告は、昭和六〇年一二月、建替建物の設計図面を作成させた。

(三) 原告は、本件建物の賃料のほかには収入がなく、建替建物の建築費用は借入金でまかなう予定である。原告は、昭和六〇年に一旦借入計画を立てたが、本件建物の明渡しの問題が決着しないので、その後は具体的な借入計画を立てていない。

5  本件建物の立地条件について

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

本件建物は中央区銀座六丁目一〇二番地八、一〇二番四一(登記簿上は同九)の土地上に存し、JR山手線有楽町駅の南方約三二〇メートル、地下鉄銀座総合駅数寄屋橋口(C2またはC3出口)の南西約一五〇メートルの距離に位置し、近隣地域は、商業集積度の最も高いとされる銀座地区であり、物販店娯楽飲食店、会社事務所等の中高層ビルの立ち並ぶ高度商業地域である。

6  被告らによる本件建物使用の必要性について

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 被告細川活版所は、昭和二一年の賃借当初は、本件建物の大半を印刷工場として使用していたが、その後、新富工場、大井工場、目黒工場、亀戸工場を有するに至り、同四六年には埼玉県草加市松江町に土地二万二四九一平方メートル、延面積一万一一一一平方メートルに及ぶ一階建ての印刷工場(草加工場)を建設し、本社の工場部門の大部分を草加工場に移転するとともに、大井工場、亀戸工場、新富工場を草加工場に統合した。同四九年には、川越工場を設けたが、同六三年には草加新工場が完成し、平成元年、川越工場を草加新工場に統合した。目黒工場はその後、光南印刷株式会社として独立させたが、同社は被告細川活版所の子会社である。

(二) 現在、本件建物において稼働中の工場部門は、原版製作の工程のみであり、被告エイチ・エムインフォメーションセンターが原版の文字部分を本件建物の一階部分で製作し、被告銀座プロセスがカラー印刷部分を製作した上、原版となる写真製版フィルムを本件建物の五階部分で製作している。

通常、完成した原版は草加新工場、目黒工場、若しくは下請に送られて印刷され、印刷物の完成後は大井にある倉庫に集結させた後、発注先に納入するが、納期が短く、緊急を要する場合には、完成後、各工場から直接本社宛に送られ、本社から各発注先に納入される。これが被告細川活版所のひとつのセールスポイントとなっており、緊急を要する仕事を受注できるのは、原版の製作を担当する工場部門と営業部門が本件建物に同居していることが強みである。しかし、他の印刷会社では、工場部門と営業部門が切り離され、それぞれの別の場所にあるものが多い。

(三) 被告細川活版所の納入先は、大蔵省、運輸省、東京都等の官公庁、東京証券取引所、東京金融先物取引所等の各種団体、日本銀行、富士銀行等の金融関係、第一生命、山一証券等の保険・証券関係、ヤマト運輸等の運輸・物流関係、西武百貨店等の商業・サービス関係、ソニー、日産自動車等の一般商工業関係などである。

(四) 被告細川活版所は、本件建物のうち、右(二)の工場部門を除くその余の部分のうち地階、一階(但し、被告エイチ・エムインフォメーションセンターが使用している部分を除く。)、二階(但し、二階のうち、別紙物件目録添付の図面に示された部分を除く。)、三階、四階は、本社部門として代表者室、管理、営業、生産、生産管理、商品技術開発の各部門が使用しており、営業部門には営業マンが一〇〇名以上いる。

被告細川活版所には、右本社のほか、大阪支店、名古屋営業所があり、そのほか細川倉庫株式会社等の関連会社がある。

(五) 被告細川活版所は、商業美術印刷のほか、ビジネスフォーム印刷、証券、通帳印刷、書籍、刊行物印刷、磁気印刷、プリペードカード印刷等を手がけており、平成元年一一月現在、その従業員数は合計三八一名であり、その年間の売上は、昭和六三年度金一三七億六八六四万円、平成元年度金一五四億二三三五万円である(これには関連会社の売上をすべて含む。)

(六) 被告銀座プロセスが写真製版フィルムを製作する過程で現像液、定着液の廃液と合成樹脂屑が出るため、被告細川活版所は、東京都公害防止条例に基づき、東京都中央区環境衛生部公害対策課から工場の認可を受けており、廃液は株式会社日本資材に回収させ、合成樹脂屑は売却している。

(七) 被告細川活版所が右のような営業部門と原版作成の工場部門の同居という営業形態を維持しつつ、前記工場の認可を受け、本件賃借部分と同程度の面積の建物を本件建物の近隣において賃借することは必ずしも容易ではない。

以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

7  正当事由についての比較考量

(一)  以上によれば、本件建物はそれ自体老朽化が相当進行しており、耐震性の点で危険性を否定することができないこと、右老朽化に対する補修、耐震性のための補強には、相当高額の費用を必要とするが、それにより本件建物の機能が増加するというものでもなく、右補修、補強に要する費用とその回収の可能性という経済性を考慮すると、賃貸人たる原告に高額の費用を伴う右補修、補強を要求することは酷であり、むしろ本件建物を取り壊して建て替える方が経済的であること、本件建物は銀座という土地の高度利用、有効活用が望ましい場所に立地していること、原告は、現段階では資金計画等を具体的には立案してはいないが、本件建物の敷地に建替建物の建築計画を準備していることなどに鑑みれば、原告が本件建物を取り壊してその敷地に建物を新築しようとすることには相当高度の合理性があるということができる。

(二)  これに対し、被告細川活版所の営業形態等の事情を考えると、被告細川活版所が本件建物を明け渡した場合には、近隣の場所で現在と同じ営業形態をとることが困難になり、そのために当面不利益を被ることは否定できないところである。

しかし、本件建物の老朽化は相当進行しており、本件建物は早晩朽廃を免れないのであり、その場合には他の場所への移転は避けられず、結局は現在の営業形態を将来にわたって継続することは困難であり、早晩その変更は避けられないこと、被告細川活版所の他の場所への移転に伴う営業形態の変更による不利益は、緊急を要する注文のすべてに現在のように応ずることができないというに過ぎないこと、他の印刷会社では原版製作を担当する工場部門と営業部門が離れた場所にあるものが多く、そのためファックス等を利用して顧客の主文に応じており、被告細川活版所においても、これまでの経験と営業努力などによりその対応は可能であると考えられ、場所の移転により、被告細川活版所の営む印刷業自体が潰滅的な打撃を受けるとは認め難いこと、本件訴えの提起後、口頭弁論の終結までにすでに約五年が経過しており、その間、被告細川活版所は本件賃借部分の使用により相応の利益を上げていること、認可を受けているとはいえ、銀座のような都心部に前述のような工場が存するのは土地の有効利用等の観点から望ましいものとはいえないことなどを勘案すると、被告細川活版所において、ある程度の経済的不利益が懸念されないではないにしても、それを理由に原告の明渡の請求を否定するほどの事情ではない。

(三)  ただ、被告細川活版所に本件建物の明渡しにより生ずる経済的不利益をすべて甘受させることは、右(二)の事情に鑑み、相当ではなく、本件建物の明渡しを無条件で認めることはできない。したがって、原告のこの点に関する主位的請求は理由がない。

そして、立退料の提供を補強条件として、初めて本件賃貸借契約の解約申入れは正当事由を具備するというべきである。

8  立退料の算定について

そこで、右の見地から、立退料について検討する。

(一) 原告が、被告細川活版所に対し、昭和六三年二月二三日の第一二回口頭弁論期日において、立退料として金二億八〇〇〇万円を提供することを申し出、平成三年二月五日の第三四回口頭弁論期日において、立退料として金六億円を提供することを申し出たことは、当裁判所に顕著である。

(二) 立退料の算定について、被告細川活版所は本件借家権価格の鑑定に基づき、これを基準にして算出すべきであると主張するのに対し、原告は本件借家権価格の鑑定において採用された算定方法、算定の基礎となる事実に誤りがあるなどとして、鑑定人横須賀博の鑑定の結果を争い、独自の算定方法を主張する。

(三) そこで、まず、鑑定人横須賀の鑑定の結果の当否につき検討する。

(1) <証拠>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 本件借家権価格の鑑定において、昭和六一年四月一四日当時の本件賃借部分の借家権価格は金六億五三七〇万円、同六三年一二月一〇日当時のそれは金一二億七〇六〇万円とされ、これは差額賃料還元法、割合方式、補償方式の各ウエイトをそれぞれ七〇、一五、一五(各パーセント)としたことにより得られたものである。鑑定人横須賀は、差額賃料還元法が最もよいと考えたが、銀座界隈では割合方式による借家権価格の算定がよく行われており、また、補償方式も全く無視できないため、右のような割合で本件借家権価格を算出した。

(イ) ところで、右借家権の評価方式のうち、割合方式は、相続税財産評価基準における借家人の権利相当額の評価方法を準用して求めたもので、借家権そのものを捉えて課税の対象としているのではなく、貸家の評価の場合に借家人居付きの状態でのその借家人の存在を理由とする交換価値の減少分を捉えて、貸家評価の際の控除項目としている。右方式による借家権の算定は、簡便である反面、課税技術上の要請から画一的な一定の割合による控除であるから、建物明渡しの際の借家権の評価方式としては個別性に欠けるとの欠点がある。

(ウ) 補償方式は、損失補償基準の建物移転等に伴う借家人に対する補償額の手法を準用して求められたもので、損失補償基準は賃貸借契約関係が通常に維持継続されている場合であっても、不随意にその賃貸借を終了させ、立退きを余儀なくされる場合の補償であり、借家人が不随意に明渡を求められている場合には、一般的にも十分支持できる手法である。

(エ) 差額賃料還元法は、評価対象の経済価値に即応した適正な賃料すなわち正常実質賃料から実際支払賃料を控除したいわゆる借り得分をその持続すを期間により有期還元して求められたもので、賃貸物件の経済的価値を同物件に投下された資本と見て、それを一定の期待利回りで運用した場合に得られる運用益に賃貸物件の維持に要する管理費と公租公課を加えた額を正常実質賃料とするが、現実に支払われている賃料が安ければ安いほど借り得分は増大するという関係にある。

土地の更地価格の上昇に伴って賃料額も上昇すれば期待利回りもほぼ横這いとなるが、土地の更地価格の上昇に比して賃料額が上昇しないとすれば、期待利回りは低下する。そして、昭和六一年四月から同六三年一二月にかけては土地価格の異常な高騰があったが、銀座では賃料額も相当上昇したので、鑑定人横須賀は、その鑑定において期待利回りを二パーセントと固定した。

(オ) 本件借家権価格の鑑定の評価対象となる賃借人としては、被告細川活版所のほかに、被告銀座プロセス、銀座アート・コムセンターが挙げられている。

(ア) 本件建物の近隣の地価動向については、昭和六二年一一月以降、高値安定の横這い状態であるとしている。なお、取引事例として昭和六三年一月以後の事例は掲げられていない。

(キ) 本件建物の敷地の更地価格を算出するに当たり、そのうち、104.36平方メートルは日本殖産興業株式会社からの借地であるにもかかわらず、この点が勘案されていない。これは鑑定人横須賀において借家権価格算定の前提としての更地価格を算出する場合には、建物の有無が重要であり、借地か否かは関係ないと考えたからである。

(ク) 鑑定人横須賀は、本件建物の物理的残存価値を五パーセント、建物の使用可能年数を一〇年と判断する一方、本件建物の減価償却費は、本件建物の状況を踏まえ、ゼロとしている。

そして、差額賃料還元法による借家権価格は、昭和六三年一二月一〇日時点で金九億三九六〇万円、同六一年四月一四日時点で金四億〇四五〇万円であるのに対し、補償方式によるそれは、同六三年一二月一〇日時点で金一九億八一八〇万円、同六一年四月一四日時点で金一二億〇九二〇万円、割合方式によるそれは同六三年一二月一〇日時点で金二一億〇三九〇万円、同六一年四月一四日時点で金一二億六一〇〇万円であり、差額賃料還元法による借家権価格は補償方式、割合方式の約二分の一となっている。

(ケ) 補償方式において、借家人が他に代替物件を賃借するために通常要する費用は、土地の更地価格と建物の価格に一定の率(それぞれαとβとする)を掛けて求められるところ、本件借家権価格の鑑定において更地価格に対する率αは0.2、建物に対する率βは0.4として算出されている。通常、事務所及び工場にはαは0.1ないし0.25、βはその用途如何にかかわりなく0.4の範囲内とされており、右鑑定においては本件建物が事務所用として用いられていること等を勘案してαは0.2、βは0.4が採用されている。

(コ) 支払賃料については、被告細川活版所の支払賃料が月額金六三六万六〇〇〇円であることを前提として本件借家権価格の算定をしている。

(2) 以上の点について検討すれば、

(ア) 本件建物は相当老朽化しているものの、前記認定のとおり直ちに倒壊の危険があるというわけではなく、鑑定の前提として使用可能年数を一〇年としたことが必ずしも恣意的とはいえない。

減価償却は、使用及び時の経過のため固定資産等に生ずる減価を各決算期毎に記帳していく税法上若しくは財務上の措置であり、減価償却がゼロとなったからといって、直ちに固定資産等が使用不能となるわけではなく、使用可能年数を一〇年と設定したことと何ら矛盾するものではなく、補償方式における率の、βの設定が恣意的であるということもできない。

被告細川活版所の支払賃料は昭和六〇年五月二七日に成立した訴訟上の和解において定められたもので、その後、賃料は改定されていないから、本件借家権価格の鑑定に当たりこれを用いたことに不当な点はない。また、前記認定のとおり被告銀座プロセス、銀座アート・コムセンターは被告細川活版所の子会社であるから、これを賃借人と見ることも直ちに不当とはいえない。

(イ) 昭和六三年一月以後の取引事例が掲げられていないからといって、直ちに土地価格が下落傾向にあるとはいえないし、これを認めるに足りる的確な証拠もない。

(ウ) 前述の差額賃料還元法については、実際支払賃料が安ければ安いほど借り得分が増大するとの関係にあり、また、地価の上昇に比べて賃料の上昇の度合いが小さければ、期待利回りも低下するとの関係もある。しかし、本件借家権価格の鑑定のされた昭和六一年四月から同六三年一二月にかけて、銀座地区においては地価の上昇の度合いに合わせて賃料も上昇しているというのであるから、期待利回りを二パーセントと設定したからといって、借家権価格を算出するための一つの方法として意味がないということはできない。

なお、正常実質賃料は、その場所を人に貸した場合、どの程度の賃料が得られるかというもので、特定の個人に対する賃貸を前提とはしていないから、現実の利回りではなく、期待利回りを用いても特に不当とはいえない。

また、前述のように、割合方式、補償方式にも、一長一短があるが、借家権価格を算出するための一つの方法して意味がないということはできない。

(エ) そして、本件借家権価格の鑑定において、差額賃料還元法、割合方式、補償方式のウエイトの置き方に明確な根拠があるわけではなく、本件建物の敷地のうち日本殖産興業株式会社から賃借している部分の上に存する本件賃借部分の借家権価格の算定に当たり、敷地が借地であることが考慮されておらず、また、地価高騰の結果が直截に反映され、わずか二年の間に借家権価格が倍増していることには相当といえない面があるものの、右(ア)ないし(ウ)のとおり、鑑定人横須賀の採用した評価方式、算定の基礎とした事実に他に特段の誤りというほどのものはなく、本件借家権価格の鑑定には、本件賃借部分の借家権価格を算定する上で、使用できないような致命的な誤謬があるということはできない。

(オ) ただ、差額賃料還元法は、現実に支払われている賃料が低廉であればあるほど、借り得分が増大するという関係にあり、特に長期にわたる賃貸借にあっては賃料が比較的低廉に据え置かれていることが多く、かつ、その間の借家人の借り得分の蓄積も膨大なものになることは容易に想像のつくところであるから、差額賃料還元法により得られた借家権価格をそのまま建物明渡しにおける立退料と見ることは相当ではなく、本件建物明渡しの際の立退料を算定するに当たっては、本件借家権価格のほか、建物の現状、賃貸借の継続した期間、今後の建物の使用可能年数、近隣の賃料額との比較、地価の急激な上昇等を勘案して、立退料を決すべきである。

なお、原告は、立退料として借家権価格相当の金員を支払わせることは、場合によって、既払賃料の返還となり、有償契約たる賃貸借契約の根幹を揺るがすことになるから相当ではないと主張する。しかし、立退料は、賃借人が不随意に賃貸借契約を終了させられる点を経済的に補完しようとするものであるから、賃貸借契約における賃借人の賃料支払義務とは別次元の問題であり、立退料の支払が、たとえ実質的には既払賃料の返還になったとしても、当然に賃貸借契約の根幹を揺るがすことになるとはいえない。

(四) そこで、本件賃借部分の立退料につき検討する。

前記認定、説示のとおり、本件借家権価格の鑑定によれば、本件賃借部分の昭和六一年四月一四日当時の借家権価格は金六億五三七〇万円、同六三年一二月一〇日当時のそれは金一二億七〇六〇万円とされること、借家権価格の算定に際し、地価高騰の結果が直截に反映され、わずか二年の間に借家権価格が倍増することは必ずしも相当とはいえないこと、本件建物の明渡請求においては、賃貸人の請求の基礎となる正当事由の内容、その程度如何を考慮して立退料の額を決すべきところ、前述のとおり、本件建物の老朽化は相当進行しており、その修復を原告に求めるのは酷であるから、原告の本件賃借部分の明渡請求には相当高度の合理性が認められること、他方、本件賃貸借契約はすでに五〇年以上も継続しており、その間の被告細川活版所の借り得分の蓄積は相当莫大であると考えられること、被告細川活版所はいずれ早晩、本件建物の老朽化、朽廃により他の場所に移転せざるを得ず、その場合には現在の営業形態の変更は必須であること、そして、営業形態の変更による経済的不利益は相応の立退料の支払により填補が可能と考えられることなど本件において認定された前記諸事情を総合考慮すると、本件における立退料は金八億円が相当である。

右認定に反する原告の主張は、前認定、説示に照らし、たやすく採用することができない。

9  本件賃貸借契約の終了時期について

そして、解約申入後にされた立退料等の金員の提供または増額の申出であっても、これを当初の解約申入れの正当事由を判断するに当たって参酌することができると解されるから、本件賃貸借契約は、昭和六一年四月一四日の経過により終了したものと認められる。

10  本件賃借部分の賃料相当額について

(一)本件賃借部分の昭和五七年四月一日から同五九年三月三一日までの賃料が月額金五六六万六〇〇〇円、同年四月一日以降の賃料が月額金六三六万六〇〇〇円であることは、当事者間に争いがない。

(二) 鑑定人横須賀の鑑定の結果によれば、本件建物の敷地の近隣になる都基準地(中央区銀座七丁目所在)の取引価格(一平方メートル当たり)、は、昭和六一年七月当時は金一三六〇万円であったが、同六三年七月は金二〇五〇万円と約1.5倍に上昇していることが認められる。

(三) そうすると、公租公課の上昇に伴う原告の経費負担の増大、近隣賃料の上昇などを勘案すると、本件賃貸借契約における賃料が相応の範囲で上昇するのもやむを得ないというべきである。

(四) 右の点、原告と被告細川活版所との従来の賃料値上げの状況及び弁論の全趣旨を総合すれば、本件賃借部分の賃料あるいは賃料相当損害金は、原告主張のとおり、昭和六一年四月一日から同六三年七月二〇日までは月額金七一五万二二〇〇円、同年七月二一日から平成二年八月三一日までは月額金八二二万五〇〇〇円、同年九月一日以降は月額金九四五万八七五〇円をもって相当と認められる。

(五) ところで、原告は、平成三年二月五日の第三四回口頭弁論期日において、被告細川活版所に対し、昭和六一年四月一五日から平成三年一月三一日までの賃料相当損害金等金九八七〇万八六三六円の支払を求めているが、右によれば、被告細川活版所が毎月供託している金員と賃料相当額の差額の合計は、別紙使用損害金の差額計算書記載のとおり金八三九万六一二六円と認められる。

(六) なお、原告は借家法七条二項に基づき年一割の利息も合わせて請求しているが、本件は賃料の増額を請求している事案ではないから、同法を原告の本訴請求に適用する理由はなく、原告の主張は、採用することができない。

ただ、原告は不動産の賃貸等を業とする株式会社であるから本件賃貸借契約は商行為と認められ、したがって、原告の右賃料相当損害金の請求には、平成三年二月一日から商事法定利率年六分の割合による遅延損害金を付することができる。

(七) そうすると、原告の本件賃料相当損害金等請求のうち金八三九六万六一二六万六一二六円及びこれに対する平成三年二月一日から商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める請求は、理由があるが、その余は理由がない。

第二被告銀座プロセス、同エイチ・エムインフォメーションセンターに対する請求について

一請求原因1及びこの事実は、当事者間に争いがない。

二前記認定、説示のとおり、被告銀座プロセス、同エイチ・エムインフォメーションセンターは、被告細川活版所の一部門で、いわゆる子会社であり、原告は、同被告らに対し、当然に明渡しを求めることができず、同被告らは、本件建物の五階部分、一階部分につき占有権原を有するといえるが、原告は被告細川活版所に対し本件賃貸借契約の終了を理由に本件賃借部分の明渡しを求めているところ、前述のとおり立退料金八億円の支払と引換えに原告の明渡請求を認容するのが相当であるから、右被告らにおいても、右占有権原を主張することはできない。

第三結論

以上によれば、原告の被告細川活版所に対する請求は、立退料金八億円の支払と引換えに本件賃借部分の明渡し、平成三年二月一日から明渡済みまで一か月金九四五万八七五〇円の賃料相当損害金の支払、金八三九六万六一二六円及びこれに対する平成三年二月一日から支払済みまで商事法定利率の年六分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、その余は理由がないから棄却し、被告銀座プロセス、同エイチ・エムインフォメーションセンターに対する請求はいずれも理由があるから認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行宣言につき同法一九六条を適用し(本件建物の明渡しを求める部分については相当でないからこれを付さない。)、なお仮執行免脱宣言は付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官淺野正樹 裁判官升田純 裁判官鈴木正紀)

別紙<省略>

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